世界史の中のウォッカ その② -小町文雄書下ろし
2. 製法と起源
製法と品質
さて、このウォッカなるものはどのようにして作られるのか。ウォッカの主な材料は、昔はライ麦だった。各種穀物、じゃがいも、とうもろこしなどのでんぷん食物なら何からでも作ることができるし、事実作られてきたが、当然味が違ってくる。
現在ではロシアのウォッカの材料はほとんどが小麦で、その他の材料から作るアルコールは味と香りを複雑にするために少量加えられるだけである。
材料のでんぷん質を煮たててからイースト菌を加えて発酵させ、一種の「もろみ」を作って、それを蒸留する。もろみを下から熱すると、水分よりも先にアルコールが蒸発するから、その蒸気を管で外へ導いて冷やし、液体に戻すのが蒸留という方法である。
これを何回か繰り返すと、原理的には純度100%に近いエチルアルコール(スピリッツ)が得られることになる。
この蒸留という方法の基本はどこでも共通だが、材料や方法の違いなどで製品には当然差が出てくる。たとえば、ワインを蒸留するとブランデーになるのだ。ウォッカの場合も、良質なスピリッツを得るためには、その過程で生じる不純物を取り除いたり、その他さまざまな細かいくふうが必要で、その技法が長年にわたって磨かれてきた。
ロシア人はウォッカ製造にあたって生じるフーゼル油、メチルアルコール、アルデヒドなどを取り除くいろいろな純化方法を発展させ、特別な川砂や白樺の木炭によるろ過装置も開発して製品の品質を高めた。
ロシアではこの工程は昔から今日にいたるまでほとんどつねに国家管理のもとにあり、現在でもエチルアルコールは国内約170ヵ所の認可された専門工場でしか生産されない。
ウォッカメーカーはいずれも、ここで作られるエチルアルコールを購入し、それ以降の工程に入ったあとに、それぞれのくふうをこらすことで自社ブランド製品を作り出すのである。一部の大手メーカーは自社内にエチルアルコール製造工場をもつが、そこも国家管理下にある点は変わらない。
この製造過程を見れば、ウォッカの品質にはそれほど差が生じないことがわかる。もちろん、こうして作られるエチルアルコールにも品質の差は出るので、製造工場から出荷される製品は品質別に上中下の3種類に分けられている。
その後の加工過程でも当然品質に差が生じるが、外国へ輸出されるものはいずれも一定程度以上の高級品なので、浸し酒のような特殊な香り付けをしているものでなければ、銘柄を味わい分けるのはかなり困難である。それに高濃度のアルコールは、口に含んだとたん、舌や口腔の表面を麻痺させるのだから、どこまで微妙な味を弁別できるものだろうか。
幸か不幸か、私たちはあまり高級でない「地のウォッカ」をロシア国外で口にすることはないのだが、気にすることはない。ロシアに行って味わったところで、ふだん飲んでいるウォッカが高級だということに納得がいくだけの話なのだ。
「なーるほど、ふだん飲むウォッカも、あれでちゃんと味がしていたのだな。そうでない、あまり味のしないウォッカというものも、まずいだけのウォッカというものもあるのだな」
高級品を作る際は、高級エチルのみを使用するだけでなく、加える水を精選し(選ばれた特定の泉のものを用いる)、ろ過材には吟味された白樺の木炭を用い、少量の異質の蒸留アルコールや糖分、薬草を隠し味として加えるなど、さまざまなくふうをしている。飲むときに微妙なコクとキレの差、香り、甘味などを感じるのは、そのせいだ。
私企業のなかったソ連時代には、ウォッカの種類(銘柄)はごく限られていたが(果物、薬草、その他を加えて浸し酒のようにしたものは別にして)、市場経済化した現在では競争が激しくなり、おびただしい数の銘柄が登場した。
その中にはかなり高価なものもあるが(2万円以上)、ウィスキーやブランデーと異なり、香りのよい樽の中で長期間熟成するようなことはないので、ろ過装置の高度化など、品質向上のためにできることは限られている。
そこで、メーカーとしては、一定の品質を確保したあとは付加価値で競争するしかないようだ。カット模様のあるクリスタルガラスに入れたり、色、形、加工に贅を凝らした特殊ビンにしたり、ビロードの袋に容れたり、豪華な箱入りとしたり、きれいな小冊子をつけて歴史的由緒を誇ったり、クレムリンの公式宴会で用いられることを売りにしたり、さまざまである。こうでもしなければ高価格はつけられないのだ。
こうした自由競争は、統制経済のソ連体制が崩壊してから始まったことなので、ブランド品が覇を競うようになってからはまだ日が浅い。
ウォッカはふつうの「高級品」でも基本的には安い酒だ。高いものがあったら、これらの「付加価値」をつけた銘柄か、外国産だ。アメリカ産などは、ときに理由もなく高くしているとしか思えないことがあるが、これは商売がうまいだけのことなのではないか。
ふつうのロシア産は1500円以下である(ただし、ロシア・ウォッカは720mlではなく、原則として500ml瓶入り)。
ウォッカの分身、サマゴン
初めに、「非合法密造酒に助けられ」と言ったが、それはどういう意味か。ここでロシアの伝統的自家製ウォッカ、つまりサマゴンと呼ばれる密造酒にもふれておかなければなるまい。
後述するように、ウォッカ誕生当時蒸留法は「秘伝」ともいうべき技術だったが、その後、しろうとでも小規模に実行できるようになった。
ウオッカの生産と販売は終始国家の統制のもとにあったので、庶民にとっては安いものではなかった。しかし、ひとたびその魔力に捕われてしまった者は、それ無しではすまない。しかもロシアではときどき禁酒法が施行されたので、これもくぐり抜けなければならなかった。
庶民はみずから蒸留アルコールを作ることで国家に対抗した。時代と共にそれは技術的にはそれほどむずかしくはなくなっていったが、どのように作られ、消費されてきたのか、実態はよくわからない。なにしろ密造なので、関係図書や統計はほとんど存在しないのだ。代わりに神話・伝説・逸話の類が、おびただしく発生し、流布する。
しかし私家版密造酒は昔から最近まで、裏社会だけで生息したわけではなく、広く存在し、サマゴン(自家蒸留)と呼ばれてごくふつうに飲まれるものだった。だからサマゴンは、ウォッカのいわば分身なのである。
消費物資生産やその流通がきわめて弱体だったソ連時代の一時期には、国民の蒸留アルコール飲料消費量の半分がサマゴンだったと推定されている。当然ながら使用されるエチルアルコールの品質は低かったし、その後の精製方法も高度ではないので、品質をごまかして飲みやすくするために、各種添加物や薬草でクセをつけたものが多かった。
非常にきびしい節酒令が出されたソ連末期のペレストロイカ(社会改革)期には悪質なサマゴンが流通して、中毒事故も多かったといわれる。当時、こんなジョークがはやった。
「世界で最もすぐれたオーデコロンは添加物の少ないソ連製である。フランス製のものは混ぜ物が多くて匂いと味が強く、頭が痛くなる」
つまり、当時のソ連の飲兵衛にとって、アルコール度の高いオーデコロンは飲み物だったのである。
ペレストロイカを厳格な節酒令で始めたゴルバチョフはゲネラーリヌィ・セクレタリ(書記長)でなく、ミネラーリヌィ(ミネラルウォーター)・セクレタリとあだ名され、多くのジョークネタになった。
ゴルバチョフ書記長が工場へ視察にやってきて、ひとりの工員にたずねた。
「同志、ここは長いのかね」
「もう4年です」
「で、ちゃんと仕事をしているかね」
「表彰されたこともあります」
「それはけっこうなことだ。ところで、ウォッカを1杯飲んでも同じように働けるかね」
「働けます」
「2杯なら」
「だいじょうぶです」
「では、3杯なら」
「このとおり働いているじゃないですか」
ソ連時代はもちろん、帝政時代もウォッカは国家専売だったため、私人がその枠組みを越えてウォッカを製造し、市場で販売することは禁じられていたが、かつて貴族・地主が市場に出さない自家用・客用のウォッカを製造することは統制されなかった。
法律的に言えば、これもサマゴンの一種であろう。彼らは高い品質を得るため、早い段階で蒸留をとめて得られるエチルだけを使用したので、市販のウォッカよりはるかにおいしかったと言われる。
19世紀半ばまで、ウォッカは高濃度の蒸留アルコールと水を半々に混合して作られた。こうすると、およそ41~42%のウォッカが得られる。これを、正統とされる40%にするには、半々にまぜるだけではなく、水分を吸収するアルコールの特性を理解した方法を講じて、正確な割合の混合をしなければならない。
ここで「ウォッカ史」に顔を出すのはなんと、元素の周期表を作成したロシアの大化学者、メンデレーエフ先生である。味覚上理想的な濃度は40%であることを確信したメンデレーエフは、その比率を確保する水との混合方法も編みだし、1894年にロシア政府の特許も得た、というのだ。
これは従来広く信じられてきた説であり、後述のポフリョープキンも有名な著書『ウォッカの歴史』で紹介しているのだが、その後誤りであることがわかった。
じつはメンデレーエフはウォッカに興味をもたなかったらしく、研究論文など残してはいないのだ。ウォッカのアルコール度に関するロシア政府の規定はすでに1843年に出されており、そのときメンデレーエフは9歳にすぎなかった。
アルコールの濃度を40%に保つことは、その後も守られて今日に至っている。52%や60%のものも見られるが、それらは「強化ウォッカ」と呼ばれて、やや特別扱いだ。さらにそれ以上強いものは(あるのですな、これが)「飲用スピリッツ」と表示される。
これがべつにおもしろくもない事実なのだが、その発見によってウォッカに関する伝説がひとつなくなってしまったのはむしろ残念なことではあるまいか。
起源をめぐる国際論争
1977年、ソ連のウォッカ関係者には寝耳に水のできごとが起こった。こともあろうに、友邦だと思っていたポーランド政府が、ポーランドの方が歴史的に先にウォッカを製造するようになったのだから、国際市場で「ウォッカ」という名称を使用することができるのはポーランドだけだ、と主張したのだ。
ウォッカは自分のものだと信じきっていたロシア人は当初相手にもしなかったのだが、国際仲裁裁判所に提訴されたからには、対抗策を講じないとポーランドの言い分が通って、ウォッカという名称が取られてしまう。
しかも、ウォッカがいつ、どこで誕生したかを示す古い文書は存在しないことが判明した。ロシア人としては、自明の理だと思っていたことを、証拠文献なしに証明しなければならないことになった。
策に窮したソ連当局は、著名な歴史学者であるウィリアム・ポフリョープキンに、ウォッカ誕生の時期と場所を特定するよう依頼した。ポフリョープキンは文献的・物的証拠を欠いたまま、言語史や社会・経済史分析などの方法で、ウォッカ製造開始の時期と場所を明確化する難題に取り組んだ。国際的な説得力を必要とするその方法をのちに解説した本が、前述の『ウォッカの歴史』なのである。
まず、ウォッカがまだ存在していないことを示す文献が14世紀後半にあり、すでに存在していることを示す文献が15世紀末にあるので、ウォッカ誕生の時期はその間100年余りのいつかに違いない、ということから出発して、さまざまな傍証から誕生の時期と場所を絞り込んでゆく。彼のとったこの方法は、まるで念入りにできた推理小説の謎解きのようだ。
たとえば言語上では、単語としてのウォッカ(vodka)は、形式的にはヴァダー(voda)「水」というスラブ語共通の基本単語の指小形(小さいものを示す形)のはずなのだが、大方の推測に反して、その意味で(たとえば、水というものに対する愛称などとして)用いられたことはなく、初めからアルコール飲料を示すロシア語固有の単語であった。その用法が現れるのはロシア語文献で14世紀以降(ウォッカ誕生以前にも、蜜酒など比較的アルコール度の強い飲料があったので、それを指した)、近辺のスラブ語に現れたのは、ロシア語からの借用として16世紀初頭以後であることを証明してみせる。
ウォッカは蒸留という、昔なら設備を必要とした工業的方法でしか得られないので、当初から一度にかなり大量に生産されたのではないかと推測される。であるならば、ウォッカ出現のようなできごとは、人々の生活様式に影響を与えただけでなく、物流と税制などの変化を伴ったはずだ。
また、権力者が新しいアルコール飲料を独占、または統制しようとしてさまざまな手を打つことは、他の国の例からも明らかである。
つまり、ウォッカのようなアルコール製品の出現は、社会に大きな変化を与えないではすまない。そうであれば、どこかにその歴史的痕跡が残るはずだ、という推理がポフリョープキンの主な武器となった。
15世紀にモスクワ公国という新興国家が存在していた。この国が周辺のロシア諸国を徐々に統一し、のちには近隣の異民族をも征服してロシア帝国に育っていったのである。
この国は、統治力(税徴収能力)のある中央政府、余剰穀物、強力な修道院、さかんな内外通商、多様・多数の住民など、上のような性格をもつウォッカの生産が大規模に発生・発達するための条件を備えていた。
ポフリョープキンはモスクワ公国以外の、他のロシア公国や、リトアニア、リヴォニア(現在のラトヴィア)、ウクライナなどの周辺国を、必要条件不足で候補から外してゆくと同時に、モスクワ公国が塩や穀物の流通に支配力を高めたことがわかっている、15世紀の半ばがアルコール飲料生産開始の時期と考えるのが適当である、との推定に至る。もちろん、さらに細かい傍証をそろえ、検証をした上での推定である。
もとは舶来技術
一方、1360年代には南フランスやイタリア各地の修道院が、ワインから高濃度のスピリッツを得ることに成功し、それはアクアヴィット(命の水)と命名された。1386年にはジェノヴァ商人がロシア各国(ロシアはまだ統一されていなかった)にこれを薬品として紹介したが、あまり関心を呼ばなかったようである。
1429年にもジェノヴァ人やフィレンツェ人がアクアヴィットを搬入した記録があるが、このときモスクワは、これを有害物として禁止している。1430年代末には、新興国モスクワの教会代表団が、宗教会議に出席するためにイタリアを訪問した。このときにアクアヴィット、ことによるとその製法に接していると思われる。
1441年、キエフ府主教(カトリックの大司教に相当する)であるギリシャ人のイシードロスがモスクワに来訪した。彼はトルコの脅威を前にして、カトリック主導による東西教会合同(対等合併ではなく、東方教会(ギリシャ正教)側がローマ教皇の権威を認めて、その支配下に入ること)の必要性を説いたが、それは正しい、伝統的教会への反逆だと扱われて、逮捕、拘留された。
しかし彼は脱走に成功してローマに戻ったのち、各地を回って東西教会合同推進の活動を続けた。ポフリョープキンは、このときにイシードロスがモスクワの修道院でウォッカの製法(蒸留技術)を伝授したのではないか、と推測している。
証拠はないので、強く主張できるわけではないが、脱走説はあまりにも不自然だ、というのが彼の意見である。モスクワ公国の城塞都市クレムリンの警備はそんな甘いものではなかっただろうし、脱走しても広々とした畑作地帯と、奥には踏み込めない森林が続くその近郊で必ず捕らえられてしまったに違いない。
ロシアをふくむ東方教会(ギリシャ正教)の側から見れば、イシードロスは裏切り者であり、処刑されてもおかしくはなかった。それなのに、警護が厳重なはずのモスクワ・クレムリンから脱走し、しかも馬と従者も連れていた(と伝えられている)というのはおかしい。
イシードロスはアルコール蒸留技術を伝授し、その代償として、以前すでに拝謁して面識のあったモスクワ大公ワシーリィ2世承認のもとに、偽装脱出の形をとって帰国したのではないだろうか、とポフリョープキンは言う。
そうでないとしても、ウォッカの製造は、それを可能とする修道院という文化的・経済的施設の中で、イタリアから来た修道士に伝授された蒸留方法で始まったのは間違いない。
修道士たちは当時唯一の知識層であり、ウォッカ以前のアルコール飲料製造にも慣れており、イタリアからもたらされたアクアヴィットを知る立場にあり、さらに新しいアルコール飲料の製造が収入と権力の増大につながることも認識していたはずだからだ。
ここでは細部を省いたが、これらの間接的証拠により、ウォッカはモスクワ公国のどこか(たぶんモスクワ・クレムリン内)の修道院で、15世紀の40~70年代に誕生した、というのがポフリョープキンの結論である。
しかしこのことになぜ文書記録がないのだろうか。当時存在した「年代記」という記録文書にはその叙述がなく、示唆すらされていないのだ。
ポフリョープキンによれば、年代記の筆者たちはそもそも、支配者の行動や騒乱のようなものについては詳述するが、外国との商業的取り決め、売買された商品、人々の日常生活、芸術作品などについては何も書かなかった。
また、彼らは見てもいない古い言説については熱心に書くが、同時代のことはあまり書かない傾向があった。しかも、長らく継続していた「年代記」という文書は、15世紀後半の各種できごとを記さないままに途絶えてしまうのである。その上、モスクワ公国の多くの修道院の文書は17世紀初頭の動乱の際に失われてしまった。
また、特権的知識人層であった修道僧たちが自分たちの知識を独占し、秘密保持に努めたのは当然だろう。特にウォッカがもたらす暴飲・酩酊を悪魔の仕業とするなら、製造法の秘密が漏れないようにしなければならなかった。
ポフリョープキンの説に基づくソ連の主張は1982年の国際仲裁裁判所裁定で妥当と認められ、ウォッカはロシアオリジナルの酒であり、国際市場でこの名称を使用する優先権をもつのはソ連だ、という主張が通った。
「ロシア産のウォッカだけが本物のロシアウォッカだ(Only vodka from Russia is genuine Russian vodka.)」という有名な標語はこうして生まれたのである。しかし事情を知らないと、この標語が何を言いたいのか、よくわかりませんね。
この標語のとおりならならば、日本だけでなく世界市場を席巻するアメリカ産のウォッカは「本物のロシア」ウォッカではない、ということになる。もっともそのほとんどは、ロシア革命の際に逃げ出したロシアメーカーのものなので、あれも「ロシア風」ウォッカに入るのかもしれない。
個々の銘柄や商標に関する本家争いの国際訴訟はあるが(たとえばスミルノフ・ウォッカの名称をめぐって)、それ以上の、ウォッカという名称自体をめぐる争いは、以降起こらないようで、この話には決着がついたと言える。
こうして、ウォッカ誕生の時期と場所は、学問的にかなり絞り込まれた。しかし「どのようにして」といういきさつは明らかにされていない。ここまでわかっているのなら、あとは想像力を働かせても許されるのではないか。
想像の土台となるのは、当時のモスクワ公国を取り巻いていた状況と、アルコール蒸留法をもたらした「イタリア人修道士」の存在である。
ウォッカの誕生はちょうど、コンスタンチノープル陥落前後のことであった。私たちは、蒸留法をモスクワに伝えたとみられるイシードロスという高僧の、コンスタンチノープルを守るための国境を股にかけた奔走と、コンスタンチノープル陥落の際にトルコ側の追及を奇跡的にのがれて生き延び、さらに10年近く続けた活躍を追うことにしよう。
このイシードロスはカトリックに改宗した上に、ビザンツ帝国最後の瞬間に、なんと東方教会の首長として皇帝に継ぐ立場に立っていたのだから、とてつもない運命の転変を生き延びた驚異の人物である。(その③へつづく)
コメント
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