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世界史の中のウォッカ その① -小町文雄書下ろし

世界史の中のウォッカ

ウォッカ誕生とビザンツ帝国滅亡

小町文雄

201610月1日

目 次

. ウォッカとはどんな酒か

   うわさのウォッカ

   ウォッカの飲み方

   ウォッカとロシア人

. 製法と起源

   製法と品質

   ウォッカの分身サマゴン

   起源をめぐる国際論争

もとは舶来技術

. オスマン帝国の脅威と東西キリスト教会

   キリスト教会の東西分裂

   モスクワ大公国

   オスマン帝国の拡大と瀕死のコンスタンチノープル

. イシードロス枢機卿とウォッカ

   東西教会合同運動とイシードロスの「転向」

   イシードロスのモスクワ訪問、そのときに

   コンスタンチノープル陥落とその後


 「世界史の中のウォッカ」とはおおげさにかまえたものだね。ウォッカが世界史上重要な役を演じたことがあったなんて、聞いたことがない。

 でもね、重要な役を演じたわけではないけれど、ウォッカの誕生のいきさつには、世界史を画したできごと、コンスタンチノープル陥落(つまり、ビザンツ帝国滅亡)と浅からぬ因縁がある。因縁といっても、もちろん因果関係とまではいかない。ウォッカはしかし、あの国際情勢の大激変に触発されるようにして生まれたのだ。

 そのウォッカは言うまでもなくロシアを代表する酒だ。未だになんとなく謎に包まれたようなところがあるのも、いかにもロシアくさいではないか。そのくせ、じつはもう少しで、自国産のあの酒を「ウォッカ」と呼ぶのを国際的に禁止されるかもしれないという、とんでもない目に遭ったことがある。ウォッカはそんな危機を乗り越えたこともある「苦労人」なのだ。

 しかも誕生以来絶えることなく、時の政府や領主による専売権に縛られ続け、ときには禁酒法に抑え込まれ、非合法密造酒に助けられて命をつないできた経歴をもつ。

 というわけでこの酒は、生まれも育ちもなかなか一筋縄ではいかないのだが、ま、あわてずにウォッカはどんな酒か、という話から始めよう。

     1. ウォッカとはどんな酒か

うわさのウォッカ

 ウォッカはとんでもなく強い酒だ、と言われる。日本だけではなく、世界中でそう思われているのだ。

 そのことをおもしろく描いた外国(ロシアでない)映画がある。名演技で英国貴族の称号を得たローレンス・オリヴィエが製作・監督・主演し、「世界の恋人」マリリン・モンローが共演した1957年製作の『王子と踊り子』だ。

 第一次大戦の少し前の時期、架空の東欧国家カルパチア王国に実力者の摂政がいた。この人物は王位継承権者「プリンス」にあたるので、この映画の題名は「王子」となった。ただじつは、15歳の現国王の実の父親なのだから、すでに中年になっていて、「王子」という日本語の語感にはちょっと合わない。ただまぁ、複雑な政治情勢と王位継承権上の理由でそういうことになったのである。

 それはともかく、この人がロンドンにやって来て、ほんの浮気心から下っ端ショーガールのモンローに手を出すのだが、その奔放な言動に振り回されて恋に陥るという、一種の「現代のおとぎ話」だ。

 摂政殿下は踊り子を陥落させようとして、ウォッカを飲ませる。「この酒は、グラスでイッキに飲まなければダメだ」。

 モンローが言われるままに1杯を飲み干し、さらに盃を重ね、「麻薬が回ったようになるわ」と半ばろれつの回らない舌で言うところがかわいい。結局4杯飲まされた彼女は倒れてしまうのだが、その間、急速に酔っていく中で、豊満な肢体と一見能足りんのような甘い口の利き方で、もちまえの魅力を存分に振りまいてくれる。

 それからどうなるか、って?そんなことはどうでもよろしい。欧米人がウォッカをどんなものだと考え、扱っているか、ということが、この際は重要なのだから。気になる人はDVDをご覧ください。

 ふつうの女性がたて続けに大きめのグラスに4杯飲んだらこうなるのはふしぎではない。しかしながら、ウオッカが特に強い酒だというのは事実に反する。ウォッカのアルコール度数は、特殊なものを除けばぴたり40%だから、ウィスキー、ジン、ブランデーなどの蒸留酒とほぼ同じなのだ。

 テキーラやマオタイ酒ともなると、銘柄にもよるが、多くは50%以上なのだから、それに比べれば、蒸留酒としてはいわば「並」の強さだ。

 ではなぜ、そんなにも強いとされるのか。その理由は、生みの親、育ての親であるロシア人の作法と飲みっぷり、そして、この映画のように、それを忠実にまねる人々の飲み方にある。もしああいう飲み方をするなら、ウィスキーだって、ブランデーだって、ラムだって、似たような酔い方をするだろう。

 ウォッカは熟成させた酒ではなく、純粋のアルコールにかなり近いので、ブランデーやウィスキーのように、少しずつゆっくり味や香りを楽しむのには適していない。口の中に放り込むようにして、喉ごしの刺激を味わうのだ。そういう飲み方をするのなら、刺激はウィスキーやジンよりもむしろまろやかだから、むせるようなことは少ない。

 ロシア風の宴会では必ず乾杯のことばとともに、出席者全員でいっしょに盃をあけるのが礼儀となっている。乾杯は最初だけにおこなわれるのではない。適当な間隔をおいて(というよりは、その席一番の飲兵衛が飲みたくなる度に)乾杯が提案され、客は毎回皆がくふうするしゃれた乾杯の辞に合わせていっせいに盃をあける。自分だけで勝手にちびちびやったり、乾杯をさぼったりしてはいけないのだ。

 酒に強くない人はこれについていくことができず、艱難辛苦を経験することになるから、「ウォッカは強い。とてもたまらん」という神話ができた。

 もちろん、グラス一杯を一気に飲むのはロシア人だけではない。西部劇の荒くれ男は誰もがそうしているし(あれはバーボン・ウィスキーだから、ほぼ同じ強さ)、スコットランドの人々もアイルランドの人々も、それぞれのウィスキーをストレートで一気飲みする。

 上の映画以外でも、登場人物(欧米人)がグラス一杯の蒸留酒をあおるように飲む場面にはよく出くわす。ただ、彼らがいつもそうするというわけではない。そういう飲み方をする理由があるときか、そうしてみせる必要があるときだけのようだ。しかもグラスはロシアみたいに大きくない。

 それもせいぜい一杯か二杯の話で、いつまでも続けるわけではないので、その酒が「やたらと強い」ということにはならなかった。

 ロシア人は宴会で延々とこれを続けるだけでなく、少人数やひとりで飲むときもこの流儀(グラス一杯グイとひと飲みの繰り返し)を崩さない。しかも一緒にいるのならこれに付き合わなくてはならないから、酒に強いロシア人でもしばしば壮絶な酔い方をすることになる。ロシア文学や映画では繰り返し出てくるおなじみの情景だ。たしかにこれを見たら、「ウォッカは強い」と思わずにはいられない。

 ロシア式宴会の作法に従わなくても、ウォッカはちびちび飲んだり、水やソーダで割ってもあまりうまいものではない。やはり、グイッとやらなければいけない。ここなのだね、最大の問題点は。

 グラスのサイズに応じ、回数(つまり総量)に気をつければ、そしてロシア式押し付けのないところならば、飲んでもだいじょうぶなはずなのだが、この飲み方だとついつい飲みすぎることになってしまう。それにウォッカのグイ飲みはやはりうまい…というか、快感を伴うからぐあいが悪いのだ。

 奈良漬を食べても赤くなる人では困るが、ウィスキーをそこそこに飲む人なら、逃げ回るほどのことはない理屈なのに、これだとつい不覚を取ってしまう。

 喉ごしの刺激が他の酒より弱いことも、油断を誘って飲みすぎの原因になる。ましてや、カクテルでジュース割りにでもしたら(たとえばスクリュー・ドライバーとか、ブラディ・メアリとか)、ほとんどの人が自覚できないうちに大量に飲んでしまい、あとで腰が立たなくなる。こんなふうにして「ウォッカは強い」という神話が定着したのだ。

   ウォッカの飲み方

 変な言い方になるが、ウォッカのうまさは、あまり味を感じさせないところにある。「きりりとした清澄さ」とでも言ったらよいか。だからロシアの農民と労働者ばかりでなく、貴族も、世を憂えたインテリゲンツィヤも好んだ。

 外国人では、ぜいたくな味に慣れ、世界中の高価な酒を知る人の中にファンが多い。「余計な味や匂いがしないからよろしい」とおっしゃる。

 飲み方は、やはりまぁ、ロシア人のようにするのがよいと思われる。まず、冷凍庫(冷蔵庫ではない!)に入れてギンギンに冷やすこと。取り出すとビンの周りに霜がつくほどに。これが快感を倍化させる。ロシア人が飲むときに必ずそうしているわけではないけれども。

 寒いロシアでは、伝統的な家の窓はたいてい二重構造になっている。今のようにしゃれた二重ガラスなんてものはなかったから、ふつうのガラス窓が、厚い壁にあけられた穴(窓枠)の外側にも内側にもあって、文字どおり二重になっているのだ。ふたつのガラス戸の間には20センチほどの空間ができるので(これが壁の厚さ、ということだ)、そこが冬の間は天然の冷蔵庫になる。

 食品なりビンなりを袋に入れて外側の窓の外につるせば、何もしないでも冷凍庫だ。なにしろ、外気温は零下20度なのだから。でもだいじょうぶです、ウォッカはそれくらいの温度では凍らない。

 ところで、ウォッカにはつまみが絶対に欠かせない。ロシア人がウォッカを飲むときには必ず何かを食べる。ロシア語の前菜「ザクースカ」というのは、「(酒を飲みながら)ちょいとつまむもの」という意味なのだ。

 最高とされるのは、古来キャビアなのだが、ロシアで親魚のチョウザメがほぼ絶滅して以来、宝石並みに高くなってしまったので、ここで扱うのは止めておこう。絵に描いた餅になるだけの話だし、他にも悪くないつまみがいくらでもあるのだから。

 ロシアの庶民がウォッカの伝統的なつまみの代表としてあげるのは、なんと酢漬けのきゅうりなのだが、そんなものでコップ一杯のウォッカをあおるにはかなりの実力が必要だ。私たちはやはり、あぶら味の強い、こってりとした味のものと一緒に飲む方がよろしかろうと思われる。何もなければ、黒パンにバターを塗ればよい。

 鮭のたまごであるイクラはキャビアに劣らずうまい。ロシアで売られるイクラは日本のものと違って少し発酵させてあるので味が強く、ウォッカの肴としてなら、あっさりとした日本のイクラよりもおいしい。ガーリック・トーストや甘くないクレープにホイップした生クリームと一緒にのせて食べると…たまりませんな。

 同じくロシア人が好むのはニシンの塩漬けだ。日本では新鮮なニシンが手に入るから、軽く塩漬けにし、刻んだたまねぎにレモンをしぼり、ニシンと一緒に一晩漬ける。これを、バターをのせた熱々のじゃがいもと一緒に頬張り、呑み込んだあとでギンギンに冷えたウォッカをぐっと飲み干すのだ。

 口の中で2種類の脂肪とすっぱみが溶け合った快感が消えないうちに、それを清冽なる液体で一気に洗い流す。こんなとき、他の酒ですむだろうか。

 もうひとつはサーロ。これは豚の脂身の塩漬けで、ロシアやウクライナの農民の冬の栄養源だ。加熱しないものと、ゆでて作るものとがある。ダイエット風潮の強い昨今の日本では眉をひそめられそうなシロモノだが、濃いにんにく味にも助けられて、加熱したものならしゃれたテリーヌかパテのような深い味がする。加熱しないものなら、脂肪の弾力がじっとりと舌に心地よい。未練を断ち切って、そのあぶら味をウォッカで流すわけだ。

 バルィクと総称される脂肪分の多い白身魚の塩漬け生干しもウォッカにぴたりだ。あまり濃くない塩漬けにしたうえ、ある程度干してある。日本の食品には、これに似た味と舌ざわりのものは見つからない。カレイの一夜干しは、作り方だけは似てはいるものの、まったく違うのですな、やはり。ロシアならチョウザメやオヒョウが定番だが、日本ならギンダラとかメロウとか呼ばれる脂肪分の多い魚で作ると、けっこうなものができる。

 そのほかにもいろいろなものがつまみになる。食糧事情のきびしかったソ連時代は、ありさえすればソーセージだって、ポテトサラダだって、何だってよかった。要するに何かをつまみながら、そして議論をしながら(酒席で議論をしないロシア人はいない)、親しい人たちとウォッカの盃を重ねてゆくのが、今も昔もロシア人の楽しみなのだ。

   ウォッカとロシア人

 めでたいから飲み、楽しいから飲み、悲しいと言っては飲み、つらいからと飲んでいるうちに、ウォッカはロシア人にとって欠かせない飲み物、人生の伴侶となっていった。しかしこの伴侶、おだやかに生活に寄り添ってくれるようなタマではない。しばしば強烈なパワーを発揮する。

 どの民族のどんな酒も、初めは酔いという非日常的感覚を体験できる呪術的・宗教的なものとして受け入れられ、受け継がれてきたのだと思われるが、発祥が比較的遅かったウオッカは、宗教的というよりも、庶民から上流階級の人々までが、きびしい現実と戦う、あるいはそれから逃れるときの相棒としてすがるものだった。

 この伴侶が力を振るう場面は、文学作品や映画に数多く見られる。これがなければ真実のロシア人の生活を描いたことにはならないからだろう。ゴーゴリにも、ドストエフスキーにも、トルストイにも、チェーホフにも、そんな場面は、例をあげるのがはばかられるほどたくさんある。

 ここでどれを例にあげようか迷ったが、ソビエト時代初期の風刺作家ゾーシチェンコに、うんと短いうえに、解説の必要がなさそうな飲兵衛話がひとつあったので、ちょっとした脱線部分を除いたほぼ全編をご紹介する。

 訳者は、筆者の恩師の染谷茂先生なので、訳文はいじってない。新仮名遣いにし、2、3の漢字用法を変えただけだ。ただし、理解の足しになりそうな注をつけた。はい、静聴。

レモネード

 おれはもちろん、左利きじゃありません。ときに飲むことはあっても、わずかなもんで――まぁお義理か、気持ちのいい一座のお付き合いに飲むだけです。

 一度に2本(注:1本は半リットル)以上はどんなにしてもいけません。身体が許しません。一度、憶えていますが、昔の命名日(注:自分の誕生日の代わりに祝う、同名の聖人の祝日)に1升ばかり頂戴しました。

 けれども、そりゃ若い張り切った時代のことで、胸の心臓は途方もなく鼓動し、脳裏にはさまざまな思想が往来していた時代のことです。

 今じゃ老い込む一方です。(中略)

 死ぬのは、もちろん、おれも好きじゃありませんや、おれは生きているのが好きなんですよ。(中略)そこで「まったくのところ飲むのはやめなけりゃならん」と思案しました。

 断然やめました。

 飲まないといったら飲まない。1時間飲まず、2時間飲まず、5時になって、無論のこと食堂へメシを食いにゆきました。

 スープを飲んで、肉の料理を食い始めました。――飲みたくなりましたね。

「ピリッとくる飲み物の代わりに何か軽い飲み物を飲もう。ナルザン(注:ミネラルウォーターの一種)かレモネードでも」と考えました。

 呼びました。

「オイ、料理をもってきたの、ひょうろくだま、おれにレモネードをもってきてくれ」

 しゃれ込んだ盆にのせて、もちろん、レモネードをもってきました。水差しに入れてあるんです(注:ロシアで水差しに入れて出すのはふつうウォッカかブランデーのみ)。小コップに注ぎました。

 一杯飲むと感じました。どうもヴォトカらしい、とね。もう一杯注ぎました。たしかにヴォトカだ、ふざけやがって!と思って残りを注ぎました――正真正銘のヴォトカです。

「こらッ」と怒鳴りました。「おかわりもってこい」とね。

「どうもこりゃ」と腹の中で「ばかに運がいいぞ」

 またもって来ました。

 またこころみてみました。疑う余地なし――まごうかたなきヴォトカです。

 あとで、金を払うときになって、とにかく注意してやりました。

「おれはレモネードを注文したのに、お前は何をもってくるんだ?ひょうろくだまめ」て言ってやりました。

 奴さんが言うには、

「手前どものところではいつもレモネードと呼ぶことになっていますんで、皆さんご納得の呼び方なのでございます。もう以前からなんで…本物のレモネードは申し訳ございませんがおいてございません。お召し上がりになる方がございませんので」とこうなんです。

「おい、もうひとつ、最後のおかわり」とおれは言ってやりました。

 こんなわけで結局禁酒し損ないました。その志はまことに切なるものがあったのですが、ご覧のとおり事情に妨げられました。世間の波には抗しがたし、というやつです。従うより仕方がありません。

 映画にも愉快な場面がたくさんあるが、ウォッカの飲みすぎがそもそも話の土台となっている、きわめ付きの映画をひとつだけご紹介しよう。まだソ連時代の1975年に作られた長編映画『運命の皮肉』だ。日本でもDVDが買える。

 あまり酒に強くない男が、仲間内の恒例行事でおおみそかにバーニャ(ロシア式サウナ)に行ったときに無理に飲まされ、完全に酔いつぶれたあげく、間違って飛行機に乗せられてしまう。モスクワからレニングラード(当時。現在はサンクトペテルブルグ)に着いた彼は、タクシーの運転手に自宅の住所を告げ、無事に送り届けられる。

 そこは自宅とよく似た団地の、外見も内部の作りもまるでそっくりな建物だったので、よそへ来てしまったとは考えてもみないまま、赤の他人の家に入って、ベッドで寝込んでしまうことから始まるラブコメディーである。

 この映画は公開時に大ヒットしただけでなく、その後もずっと、おおみそかには必ずテレビ放映される国民的映画となった。これを見ないと新年を迎えた気になれない人がいっぱいいるのだ。

 ちなみに、ロシア語で「新年を迎える」というのは、親しい仲間が集まって、深夜0時を期して乾杯することだ。そのときには誰にキスをしてもよい、といううるわしい風習がある。テレビやラジオは、皆が待ち望むその瞬間に、モスクワ・クレムリンの大時計が打つ、割れ鐘の音のような時報を放送する。この映画にももちろんその場面が出てくる。

 この映画は冒頭で、ソ連社会におけるウォッカの飲み方、飲ませ方、酔いつぶれ方の典型を見せてくれる。この様子は、体制転換後の今でもそう変わっていない(少しおだやかになったという説もあるが)。

 皆でいい加減なことを言いながら、かばんの中に入れて持ち込んだウォッカ(サウナでは賢明にもウォッカは売らないので)を、飲んでいたビールのジョッキについで(つまり1回でも最低100ccにはなる)あおるうちに、主人公だけでなく、仲間そろって正体不明にぐてんぐてんになる。

 違う町なのに、住所、番地、建物の外観、廊下や階段の構造だけでなく、部屋番号から鍵まで同じ、というのは、よその国ならありえない不自然な設定のように思われるだろうが、計画経済下で新興住宅地が急増したソ連大都会の郊外ならいかにもありそうな話なのだ。

 それでも観客から出るかもしれない「不自然」の批判を恐れたのか、映画の冒頭では、それが少しもふしぎでないことだと説明するアニメが、軽快な歌と共に流される。

 買い物から帰宅した部屋の主は、奥の深いふしぎな雰囲気を漂わせる美人で、監督がその美貌と表情がもつ魅力のとりこになって、セリフを吹き替えるという無理なことまでして登用したポーランド人女優が扮している。

 帰宅してみたら、ベッドに見知らぬ男が寝ている、というのだから、当然カンカンになる。しかも相手は記憶喪失に近いほど酔っぱらっているのだ。当人同士が、何が起こったのかを納得するまでにも一騒ぎも二騒ぎもあって時間がかかるが、そこへ新年を共に迎える約束で女友だちのところへやってきた婚約寸前の男が異常に嫉妬深く、怒りっぽいために、話がややこしくなる。

 てんやわんやのドタバタ劇、無関係な第三者の闖入、ケンカと仲直りがこれでもか、これでもかと繰り返される。筋と呼べるようなものはない。

 ドタバタ劇ばかりではなく、途中で真冬の夜明け時、レニングラード中心部の名建築群が、厳冬の早朝の日差しと霧氷を通して叙情的に描きだされる部分が、話にほとんど関係なくしばらく続く。これはいわば、「道行」のような、「間奏曲」のようなものなのでしょうな。

 また、ところどころに主演の男女俳優がギターを爪弾きながら歌うしゃれた場面も挿入されていて、全体としてなかなか味わいの深い作品になっている。

 結局はめでたくもハッピーエンドで終わるこの映画は、ウォッカを飲みながらゆっくり新年を迎えようとしているロシア人観客を適度にはらはらさせ、笑わせ、納得させ、雰囲気に酔わせ…つまるところ満足させる。

 もっとも、ウォッカという飲み物がもつ魔力を身をもって知っているはずのロシア人たちを、笑いと安堵だけではすまない追憶や感慨や、人によっては忸怩たる思い出にも誘うから、その辛味もあって、この映画はこれだけの人気を保っているのだろう。

(つづく)

世界史の中のウォッカ その②    -小町文雄書下ろし

 2. 製法と起源

   製法と品質

 さて、このウォッカなるものはどのようにして作られるのか。ウォッカの主な材料は、昔はライ麦だった。各種穀物、じゃがいも、とうもろこしなどのでんぷん食物なら何からでも作ることができるし、事実作られてきたが、当然味が違ってくる。

 現在ではロシアのウォッカの材料はほとんどが小麦で、その他の材料から作るアルコールは味と香りを複雑にするために少量加えられるだけである。

材料のでんぷん質を煮たててからイースト菌を加えて発酵させ、一種の「もろみ」を作って、それを蒸留する。もろみを下から熱すると、水分よりも先にアルコールが蒸発するから、その蒸気を管で外へ導いて冷やし、液体に戻すのが蒸留という方法である。

 これを何回か繰り返すと、原理的には純度100%に近いエチルアルコール(スピリッツ)が得られることになる。

 この蒸留という方法の基本はどこでも共通だが、材料や方法の違いなどで製品には当然差が出てくる。たとえば、ワインを蒸留するとブランデーになるのだ。ウォッカの場合も、良質なスピリッツを得るためには、その過程で生じる不純物を取り除いたり、その他さまざまな細かいくふうが必要で、その技法が長年にわたって磨かれてきた。

ロシア人はウォッカ製造にあたって生じるフーゼル油、メチルアルコール、アルデヒドなどを取り除くいろいろな純化方法を発展させ、特別な川砂や白樺の木炭によるろ過装置も開発して製品の品質を高めた。

 ロシアではこの工程は昔から今日にいたるまでほとんどつねに国家管理のもとにあり、現在でもエチルアルコールは国内約170ヵ所の認可された専門工場でしか生産されない。

 ウォッカメーカーはいずれも、ここで作られるエチルアルコールを購入し、それ以降の工程に入ったあとに、それぞれのくふうをこらすことで自社ブランド製品を作り出すのである。一部の大手メーカーは自社内にエチルアルコール製造工場をもつが、そこも国家管理下にある点は変わらない。

 この製造過程を見れば、ウォッカの品質にはそれほど差が生じないことがわかる。もちろん、こうして作られるエチルアルコールにも品質の差は出るので、製造工場から出荷される製品は品質別に上中下の3種類に分けられている。

 その後の加工過程でも当然品質に差が生じるが、外国へ輸出されるものはいずれも一定程度以上の高級品なので、浸し酒のような特殊な香り付けをしているものでなければ、銘柄を味わい分けるのはかなり困難である。それに高濃度のアルコールは、口に含んだとたん、舌や口腔の表面を麻痺させるのだから、どこまで微妙な味を弁別できるものだろうか。

 幸か不幸か、私たちはあまり高級でない「地のウォッカ」をロシア国外で口にすることはないのだが、気にすることはない。ロシアに行って味わったところで、ふだん飲んでいるウォッカが高級だということに納得がいくだけの話なのだ。

 「なーるほど、ふだん飲むウォッカも、あれでちゃんと味がしていたのだな。そうでない、あまり味のしないウォッカというものも、まずいだけのウォッカというものもあるのだな」

 高級品を作る際は、高級エチルのみを使用するだけでなく、加える水を精選し(選ばれた特定の泉のものを用いる)、ろ過材には吟味された白樺の木炭を用い、少量の異質の蒸留アルコールや糖分、薬草を隠し味として加えるなど、さまざまなくふうをしている。飲むときに微妙なコクとキレの差、香り、甘味などを感じるのは、そのせいだ。

 私企業のなかったソ連時代には、ウォッカの種類(銘柄)はごく限られていたが(果物、薬草、その他を加えて浸し酒のようにしたものは別にして)、市場経済化した現在では競争が激しくなり、おびただしい数の銘柄が登場した。

 その中にはかなり高価なものもあるが(2万円以上)、ウィスキーやブランデーと異なり、香りのよい樽の中で長期間熟成するようなことはないので、ろ過装置の高度化など、品質向上のためにできることは限られている。

 そこで、メーカーとしては、一定の品質を確保したあとは付加価値で競争するしかないようだ。カット模様のあるクリスタルガラスに入れたり、色、形、加工に贅を凝らした特殊ビンにしたり、ビロードの袋に容れたり、豪華な箱入りとしたり、きれいな小冊子をつけて歴史的由緒を誇ったり、クレムリンの公式宴会で用いられることを売りにしたり、さまざまである。こうでもしなければ高価格はつけられないのだ。

 こうした自由競争は、統制経済のソ連体制が崩壊してから始まったことなので、ブランド品が覇を競うようになってからはまだ日が浅い。

 ウォッカはふつうの「高級品」でも基本的には安い酒だ。高いものがあったら、これらの「付加価値」をつけた銘柄か、外国産だ。アメリカ産などは、ときに理由もなく高くしているとしか思えないことがあるが、これは商売がうまいだけのことなのではないか。

 ふつうのロシア産は1500円以下である(ただし、ロシア・ウォッカは720mlではなく、原則として500ml瓶入り)。

   ウォッカの分身、サマゴン

 初めに、「非合法密造酒に助けられ」と言ったが、それはどういう意味か。ここでロシアの伝統的自家製ウォッカ、つまりサマゴンと呼ばれる密造酒にもふれておかなければなるまい。

 後述するように、ウォッカ誕生当時蒸留法は「秘伝」ともいうべき技術だったが、その後、しろうとでも小規模に実行できるようになった。

 ウオッカの生産と販売は終始国家の統制のもとにあったので、庶民にとっては安いものではなかった。しかし、ひとたびその魔力に捕われてしまった者は、それ無しではすまない。しかもロシアではときどき禁酒法が施行されたので、これもくぐり抜けなければならなかった。

 庶民はみずから蒸留アルコールを作ることで国家に対抗した。時代と共にそれは技術的にはそれほどむずかしくはなくなっていったが、どのように作られ、消費されてきたのか、実態はよくわからない。なにしろ密造なので、関係図書や統計はほとんど存在しないのだ。代わりに神話・伝説・逸話の類が、おびただしく発生し、流布する。

 しかし私家版密造酒は昔から最近まで、裏社会だけで生息したわけではなく、広く存在し、サマゴン(自家蒸留)と呼ばれてごくふつうに飲まれるものだった。だからサマゴンは、ウォッカのいわば分身なのである。

 消費物資生産やその流通がきわめて弱体だったソ連時代の一時期には、国民の蒸留アルコール飲料消費量の半分がサマゴンだったと推定されている。当然ながら使用されるエチルアルコールの品質は低かったし、その後の精製方法も高度ではないので、品質をごまかして飲みやすくするために、各種添加物や薬草でクセをつけたものが多かった。

 非常にきびしい節酒令が出されたソ連末期のペレストロイカ(社会改革)期には悪質なサマゴンが流通して、中毒事故も多かったといわれる。当時、こんなジョークがはやった。

 「世界で最もすぐれたオーデコロンは添加物の少ないソ連製である。フランス製のものは混ぜ物が多くて匂いと味が強く、頭が痛くなる」

 つまり、当時のソ連の飲兵衛にとって、アルコール度の高いオーデコロンは飲み物だったのである。

 ペレストロイカを厳格な節酒令で始めたゴルバチョフはゲネラーリヌィ・セクレタリ(書記長)でなく、ミネラーリヌィ(ミネラルウォーター)・セクレタリとあだ名され、多くのジョークネタになった。

 ゴルバチョフ書記長が工場へ視察にやってきて、ひとりの工員にたずねた。

「同志、ここは長いのかね」

「もう4年です」

「で、ちゃんと仕事をしているかね」

「表彰されたこともあります」

「それはけっこうなことだ。ところで、ウォッカを1杯飲んでも同じように働けるかね」

「働けます」

「2杯なら」

「だいじょうぶです」

「では、3杯なら」

「このとおり働いているじゃないですか」

 ソ連時代はもちろん、帝政時代もウォッカは国家専売だったため、私人がその枠組みを越えてウォッカを製造し、市場で販売することは禁じられていたが、かつて貴族・地主が市場に出さない自家用・客用のウォッカを製造することは統制されなかった。

 法律的に言えば、これもサマゴンの一種であろう。彼らは高い品質を得るため、早い段階で蒸留をとめて得られるエチルだけを使用したので、市販のウォッカよりはるかにおいしかったと言われる。

19世紀半ばまで、ウォッカは高濃度の蒸留アルコールと水を半々に混合して作られた。こうすると、およそ4142%のウォッカが得られる。これを、正統とされる40%にするには、半々にまぜるだけではなく、水分を吸収するアルコールの特性を理解した方法を講じて、正確な割合の混合をしなければならない。

 ここで「ウォッカ史」に顔を出すのはなんと、元素の周期表を作成したロシアの大化学者、メンデレーエフ先生である。味覚上理想的な濃度は40%であることを確信したメンデレーエフは、その比率を確保する水との混合方法も編みだし、1894年にロシア政府の特許も得た、というのだ。

 これは従来広く信じられてきた説であり、後述のポフリョープキンも有名な著書『ウォッカの歴史』で紹介しているのだが、その後誤りであることがわかった。

 じつはメンデレーエフはウォッカに興味をもたなかったらしく、研究論文など残してはいないのだ。ウォッカのアルコール度に関するロシア政府の規定はすでに1843年に出されており、そのときメンデレーエフは9歳にすぎなかった。

 アルコールの濃度を40%に保つことは、その後も守られて今日に至っている。52%や60%のものも見られるが、それらは「強化ウォッカ」と呼ばれて、やや特別扱いだ。さらにそれ以上強いものは(あるのですな、これが)「飲用スピリッツ」と表示される。

 これがべつにおもしろくもない事実なのだが、その発見によってウォッカに関する伝説がひとつなくなってしまったのはむしろ残念なことではあるまいか。

   起源をめぐる国際論争

 1977年、ソ連のウォッカ関係者には寝耳に水のできごとが起こった。こともあろうに、友邦だと思っていたポーランド政府が、ポーランドの方が歴史的に先にウォッカを製造するようになったのだから、国際市場で「ウォッカ」という名称を使用することができるのはポーランドだけだ、と主張したのだ。

 ウォッカは自分のものだと信じきっていたロシア人は当初相手にもしなかったのだが、国際仲裁裁判所に提訴されたからには、対抗策を講じないとポーランドの言い分が通って、ウォッカという名称が取られてしまう。

 しかも、ウォッカがいつ、どこで誕生したかを示す古い文書は存在しないことが判明した。ロシア人としては、自明の理だと思っていたことを、証拠文献なしに証明しなければならないことになった。

 策に窮したソ連当局は、著名な歴史学者であるウィリアム・ポフリョープキンに、ウォッカ誕生の時期と場所を特定するよう依頼した。ポフリョープキンは文献的・物的証拠を欠いたまま、言語史や社会・経済史分析などの方法で、ウォッカ製造開始の時期と場所を明確化する難題に取り組んだ。国際的な説得力を必要とするその方法をのちに解説した本が、前述の『ウォッカの歴史』なのである。

 まず、ウォッカがまだ存在していないことを示す文献が14世紀後半にあり、すでに存在していることを示す文献が15世紀末にあるので、ウォッカ誕生の時期はその間100年余りのいつかに違いない、ということから出発して、さまざまな傍証から誕生の時期と場所を絞り込んでゆく。彼のとったこの方法は、まるで念入りにできた推理小説の謎解きのようだ。

 たとえば言語上では、単語としてのウォッカ(vodka)は、形式的にはヴァダー(voda)「水」というスラブ語共通の基本単語の指小形(小さいものを示す形)のはずなのだが、大方の推測に反して、その意味で(たとえば、水というものに対する愛称などとして)用いられたことはなく、初めからアルコール飲料を示すロシア語固有の単語であった。その用法が現れるのはロシア語文献で14世紀以降(ウォッカ誕生以前にも、蜜酒など比較的アルコール度の強い飲料があったので、それを指した)、近辺のスラブ語に現れたのは、ロシア語からの借用として16世紀初頭以後であることを証明してみせる。

 ウォッカは蒸留という、昔なら設備を必要とした工業的方法でしか得られないので、当初から一度にかなり大量に生産されたのではないかと推測される。であるならば、ウォッカ出現のようなできごとは、人々の生活様式に影響を与えただけでなく、物流と税制などの変化を伴ったはずだ。

 また、権力者が新しいアルコール飲料を独占、または統制しようとしてさまざまな手を打つことは、他の国の例からも明らかである。

 つまり、ウォッカのようなアルコール製品の出現は、社会に大きな変化を与えないではすまない。そうであれば、どこかにその歴史的痕跡が残るはずだ、という推理がポフリョープキンの主な武器となった。

15世紀にモスクワ公国という新興国家が存在していた。この国が周辺のロシア諸国を徐々に統一し、のちには近隣の異民族をも征服してロシア帝国に育っていったのである。

 この国は、統治力(税徴収能力)のある中央政府、余剰穀物、強力な修道院、さかんな内外通商、多様・多数の住民など、上のような性格をもつウォッカの生産が大規模に発生・発達するための条件を備えていた。

 ポフリョープキンはモスクワ公国以外の、他のロシア公国や、リトアニア、リヴォニア(現在のラトヴィア)、ウクライナなどの周辺国を、必要条件不足で候補から外してゆくと同時に、モスクワ公国が塩や穀物の流通に支配力を高めたことがわかっている、15世紀の半ばがアルコール飲料生産開始の時期と考えるのが適当である、との推定に至る。もちろん、さらに細かい傍証をそろえ、検証をした上での推定である。

もとは舶来技術

 一方、1360年代には南フランスやイタリア各地の修道院が、ワインから高濃度のスピリッツを得ることに成功し、それはアクアヴィット(命の水)と命名された。1386年にはジェノヴァ商人がロシア各国(ロシアはまだ統一されていなかった)にこれを薬品として紹介したが、あまり関心を呼ばなかったようである。

1429年にもジェノヴァ人やフィレンツェ人がアクアヴィットを搬入した記録があるが、このときモスクワは、これを有害物として禁止している。1430年代末には、新興国モスクワの教会代表団が、宗教会議に出席するためにイタリアを訪問した。このときにアクアヴィット、ことによるとその製法に接していると思われる。

1441年、キエフ府主教(カトリックの大司教に相当する)であるギリシャ人のイシードロスがモスクワに来訪した。彼はトルコの脅威を前にして、カトリック主導による東西教会合同(対等合併ではなく、東方教会(ギリシャ正教)側がローマ教皇の権威を認めて、その支配下に入ること)の必要性を説いたが、それは正しい、伝統的教会への反逆だと扱われて、逮捕、拘留された。

 しかし彼は脱走に成功してローマに戻ったのち、各地を回って東西教会合同推進の活動を続けた。ポフリョープキンは、このときにイシードロスがモスクワの修道院でウォッカの製法(蒸留技術)を伝授したのではないか、と推測している。

 証拠はないので、強く主張できるわけではないが、脱走説はあまりにも不自然だ、というのが彼の意見である。モスクワ公国の城塞都市クレムリンの警備はそんな甘いものではなかっただろうし、脱走しても広々とした畑作地帯と、奥には踏み込めない森林が続くその近郊で必ず捕らえられてしまったに違いない。

 ロシアをふくむ東方教会(ギリシャ正教)の側から見れば、イシードロスは裏切り者であり、処刑されてもおかしくはなかった。それなのに、警護が厳重なはずのモスクワ・クレムリンから脱走し、しかも馬と従者も連れていた(と伝えられている)というのはおかしい。

 イシードロスはアルコール蒸留技術を伝授し、その代償として、以前すでに拝謁して面識のあったモスクワ大公ワシーリィ2世承認のもとに、偽装脱出の形をとって帰国したのではないだろうか、とポフリョープキンは言う。

 そうでないとしても、ウォッカの製造は、それを可能とする修道院という文化的・経済的施設の中で、イタリアから来た修道士に伝授された蒸留方法で始まったのは間違いない。

 修道士たちは当時唯一の知識層であり、ウォッカ以前のアルコール飲料製造にも慣れており、イタリアからもたらされたアクアヴィットを知る立場にあり、さらに新しいアルコール飲料の製造が収入と権力の増大につながることも認識していたはずだからだ。

 ここでは細部を省いたが、これらの間接的証拠により、ウォッカはモスクワ公国のどこか(たぶんモスクワ・クレムリン内)の修道院で、15世紀の4070年代に誕生した、というのがポフリョープキンの結論である。

 しかしこのことになぜ文書記録がないのだろうか。当時存在した「年代記」という記録文書にはその叙述がなく、示唆すらされていないのだ。

 ポフリョープキンによれば、年代記の筆者たちはそもそも、支配者の行動や騒乱のようなものについては詳述するが、外国との商業的取り決め、売買された商品、人々の日常生活、芸術作品などについては何も書かなかった。

 また、彼らは見てもいない古い言説については熱心に書くが、同時代のことはあまり書かない傾向があった。しかも、長らく継続していた「年代記」という文書は、15世紀後半の各種できごとを記さないままに途絶えてしまうのである。その上、モスクワ公国の多くの修道院の文書は17世紀初頭の動乱の際に失われてしまった。

 また、特権的知識人層であった修道僧たちが自分たちの知識を独占し、秘密保持に努めたのは当然だろう。特にウォッカがもたらす暴飲・酩酊を悪魔の仕業とするなら、製造法の秘密が漏れないようにしなければならなかった。

 ポフリョープキンの説に基づくソ連の主張は1982年の国際仲裁裁判所裁定で妥当と認められ、ウォッカはロシアオリジナルの酒であり、国際市場でこの名称を使用する優先権をもつのはソ連だ、という主張が通った。

 「ロシア産のウォッカだけが本物のロシアウォッカだ(Only vodka from Russia is genuine Russian vodka.)」という有名な標語はこうして生まれたのである。しかし事情を知らないと、この標語が何を言いたいのか、よくわかりませんね。

 この標語のとおりならならば、日本だけでなく世界市場を席巻するアメリカ産のウォッカは「本物のロシア」ウォッカではない、ということになる。もっともそのほとんどは、ロシア革命の際に逃げ出したロシアメーカーのものなので、あれも「ロシア風」ウォッカに入るのかもしれない。

 個々の銘柄や商標に関する本家争いの国際訴訟はあるが(たとえばスミルノフ・ウォッカの名称をめぐって)、それ以上の、ウォッカという名称自体をめぐる争いは、以降起こらないようで、この話には決着がついたと言える。

 こうして、ウォッカ誕生の時期と場所は、学問的にかなり絞り込まれた。しかし「どのようにして」といういきさつは明らかにされていない。ここまでわかっているのなら、あとは想像力を働かせても許されるのではないか。

 想像の土台となるのは、当時のモスクワ公国を取り巻いていた状況と、アルコール蒸留法をもたらした「イタリア人修道士」の存在である。

 ウォッカの誕生はちょうど、コンスタンチノープル陥落前後のことであった。私たちは、蒸留法をモスクワに伝えたとみられるイシードロスという高僧の、コンスタンチノープルを守るための国境を股にかけた奔走と、コンスタンチノープル陥落の際にトルコ側の追及を奇跡的にのがれて生き延び、さらに10年近く続けた活躍を追うことにしよう。

 このイシードロスはカトリックに改宗した上に、ビザンツ帝国最後の瞬間に、なんと東方教会の首長として皇帝に継ぐ立場に立っていたのだから、とてつもない運命の転変を生き延びた驚異の人物である。(その③へつづく)

世界史の中のウォッカ その③  -小町文雄書下ろし

. オスマン帝国の脅威と東西キリスト教会

   キリスト教会の東西分裂

 結果的に蒸留方法の伝播を促進したことになる東西キリスト教会の合同運動とは何だったのか。当時のモスクワ(大公国)にあったキリスト教はどんなものだったのか。そもそも当時のモスクワとはどんな国だったのか。ウォッカ誕生のいきさつを想像するには、まずこうしたことをひとわたり心得ておかなければならないだろう。

 その前提として、キリスト教東西教会分裂の歴史、東ローマ(ビザンツ)帝国の衰退と西欧諸国およびカトリック教会(ローマ教皇勢力)の成長、そしてオスマン帝国の勢力増大とヨーロッパ世界への進出という流れがある。ごく簡単に歴史をおさらいをしよう。

 キリスト教はローマ帝国において当初迫害を受けるが、紀元313年にローマ皇帝コンスタンチヌス1世によって公認され、388年には帝国の国教とされた。それからは唯一の正しい宗教として、古代ギリシャ以来の伝統的多神教を否定し、弾圧する側になった。

 また、帝国の中興を果たしたコンスタンチヌス1世はみずからの名を冠した新都コンスタンチノポリス(現在のイスタンブール。当時の名称は慣用に従って英語風にコンスタンチノープルと表記する)を建設し、330年にローマからそこへ首都を移した。

 今からでは、ヨーロッパ中央部にあったローマからどうしてそんな東部にわざわざ遷都したのかと思えるかもしれないが、当時の文明と政治勢力の分布状況からすれば、むしろより中心的地域への移動だった。

 しかし巨大なローマ帝国に2つの核ができることになり、395年に帝国は東西に分離してしまう。同時にキリスト教会においても東西の差が徐々に大きくなっていった。

 イタリア半島を中心に西ヨーロッパを支配した西ローマ帝国は、その後食料と居住地を求めて南下するゲルマン諸民族の侵入の前に弱体化し、紀元476年に滅亡してしまう。しかしキリスト教は、ゲルマン諸民族にも受け入れられて生き残る。

 一方の東ローマ帝国は安定し、混乱する西ヨーロッパとは対照的に勢力と権威を維持し、正統ローマ帝国を名乗り続けるが、ローマを中心に築き上げられた合理主義、法治主義、現世主義、非権威主義、快楽趣味などのローマ文明の特徴の多くは引き継がれず(西ヨーロッパでもこれらはしばらく途絶し、生き返るのはルネッサンス期であるが)、専制皇帝制、皇帝教皇主義(皇帝の権限が教会の長の権限に優越する)、禁欲主義、些細なことまで厳格な宗教教義が支配することなどを特徴とする、閉鎖的で権威主義的な中世ギリシャ(ビザンツ)文明が帝国を支配した。

 東ローマ帝国は安定、充実し、9世紀後半には全盛時代を迎えたが、西ヨーロッパでは諸民族の諸王朝が興亡を繰り返し、混乱が続いた。しかし紀元800年にフランク王国のカール大帝(シャルル=マーニュ)がローマで戴冠したころから、西ヨーロッパ地域と西方教会は徐々に落ち着きを取り戻した。ただし東西教会の対立・分離は時代と共に進行していった。

 西ヨーロッパの各地方と政治権力は中世の間にさまざまな対立・闘争を繰り返して、今日まで続く多くの国が成立していくが、教会の方はローマ教皇のもとに単一の教義と教会組織を打ち立てるのに成功し、カトリック(「普遍性」を意味する)を称した。

 一方東方教会はオーソドクス(「正統性」を意味する)を名乗り、みずからがキリスト教の本流だと主張した。こうして東西教会はお互いに相容れなくなり、差が広がって、分裂状態が深化していった。

 現在、東方教会(ギリシャ正教)は民族(国家)別のいくつもの教会組織(教皇に相当する総主教が何人もいる)に分かれ、全体としてはゆるやかな統合体でしかないが、そのようになったのは、初めからカトリック教会のような単一言語(ラテン語)による典礼と、総主教(教皇)を頂点とするピラミッド型教会組織を堅持しなかったため、そしてその地域にイスラム教を交えたはげしい政治的興亡の歴史があったためだ。

 1054年、東西教会はついに完全に分離した。相互に相手を破門したのである。ひとつのキリスト教が東西で異質の文化と伝統(中世ギリシャ・ビザンツ文明と古代ローマ、ゲルマン文明)の中で変質し、発展し、さらには異なる政治権力に支配されたふたつの教会組織に分裂し、以後きびしい対立を続けたのだった。

 1204年には、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するはずの十字軍(第4次)が、なんと同じキリスト教東方教会の本部コンスタンチノープルを占領し、以後60年にわたってラテン帝国を打ち立てたことさえあった。こんなできごとがあったあとでは、東西教会の和解がきわめて困難になったのはあたりまえだろう。

 もうひとつ重要な点は、13世紀以来、オスマン帝国(トルコ)が急速に勢力を拡大し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、さらには西欧世界をもおびやかす存在になっていったことだ。1369年にオスマン帝国はアドリアノープルを首都とするにいたった。現在ではエディルネと呼ばれるこの町は、現トルコ共和国の最北部、ブルガリアおよびギリシャと国境を接する地方、つまり、コンスタンチノープルから陸続きですぐ近くのヨーロッパ地域にある。

 オスマン王朝は15世紀初めには、チムールに敗れて一時崩壊する危機に陥ったが、チムールの死後すぐに帝国を再興し、版図を回復し、さらに拡大させた。1000年以上にわたって栄華を誇ったビザンツ帝国はほとんどの領土を失い、コンスタンチノープルは周辺のごくせまい地域を残して、オスマン帝国に包囲された。

 しかしそんな状態にありながら、ビザンツ帝国は以後も約80年間にわたって存続したのである。存亡の危機に立たされたコンスタンチノープルは西欧世界に対し、同じキリスト教徒として、異教徒の侵略を阻止してほしいと、繰り返し援助を要請した。

 そのころ西ヨーロッパ地域には、野心的な君主に率いられたフランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)、スペインなど多くの国家が存在して、相互に覇権を争っていた。また、東地中海を制して、オリエントとの交易によって繁栄したヴェネツィア、ジェノヴァなどのイタリア海洋国家も力をもっていた。

 西ヨーロッパは、宗教的にはローマ教皇を頂点とする単一のカトリック教会が支配していたはずだが、キリスト教国援助のために協力体制を築くことはそう簡単ではなかった。

 教皇は説得、恫喝、破門などのあらゆる手段を使って君主たちに対する統制を強めようとしていたが、必ずしもうまくはいかなかった。聖俗の両権力が実権獲得を競う歴史の中で、実際の教皇庁は、政治的には他の王国と変わらない広さの領域を支配するひとつの国のようなものだったからである。

 もちろん、教皇の座は通常の王位と違って世襲ではなく、毎回ヨーロッパ各地に散らばる枢機卿の、つまり各地の統治者の強い影響下で任命される僧職者の互選で選ばれるという、きわめて特殊な形態ではあったが。

 14世紀から15世紀初めには、100年以上にわたって、教皇庁が本拠地のローマを追われ、南フランスのアヴィニヨンに移らなければならないようなことさえあった(いわゆる「教皇のアヴィニヨン幽囚」)。

 それでも、「神の代理人」としての権威はやはり絶大であり、多くの君主を動かす影響力ももっていた。過去何次かにわたって派遣された西ヨーロッパ諸国連合の十字軍は、教皇の呼びかけに各国が呼応したために可能となったのである。

 ただ、各国の利害が錯綜していたので、軍事行動に各国を動員するためには、教皇も影響力を強めて毎回権謀術数の限りをつくさなければならなかった。

 歴代ローマ教皇は当然ながら、異教徒に脅かされるキリスト教国を救うのは神聖なる義務だとして、各国に救援を呼びかけた。しかし同時に、長年対立してきた東方教会を傘下に入れる絶好の機会と考え、援助の条件として東西教会の合同を主張した。それは平等・同権の合同ではなく、ローマ教皇の卓越した権威を認め、その支配下に入ることを東方教会に強制する事実上の吸収併合だった。

 東方教会は、この受け入れがたい条件をのむか、イスラム教徒に屈するか、という選択に迫られた。異教徒に屈するよりも、同じキリスト教徒に屈するほうがよさそうに思えるが、歴史的に苦い目にあったこともあるカトリックの横暴を考えると、異なる価値観を押し付けるラテン文明を受け入れるよりも、異文化のトルコの軍門に下ったほうがよい、とする意見も少なくなかった。多民族からなるオスマン帝国は、政治的従属を受け入れるなら、支配下の住民の宗教には寛容だったからである。

 ・刻々と脅威を増すオスマン帝国の圧力にさらされる、包囲されて小さな領土しかもたないビザンツ帝国。

 ・存在基盤であるオリエント地域との貿易を失う危機に直面して、打開策を模索する当時の海軍強国ヴェネツィアとジェノヴァ。

 ・相互に対立し、勢力拡大のために駆け引きと争いに明け暮れていたスペイン、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ諸大国。

 ・ヨーロッパ諸国の足並みをそろえてキリスト教国を救おうとしつつも、長年続いた東西教会の対立に終止符を打って、東方教会をもその支配下に入れようと画策する教皇庁。

 15世紀前半は、イスラム・トルコ進出の脅威増大という緊張をはらんだ情勢に直面しながら、ヨーロッパのどの勢力も決定的な策を講じることができないままにすぎていった。

   モスクワ大公国

 さてここで、ウオッカ誕生の地となるロシアがそのころどういう状態にあったのかに目を転じよう。

 ロシアはそれほど古い国ではない。9世紀ごろ、同一言語を話す民族集団が成立し、国家的社会組織を作っていった。これがのちのロシア人の先祖にあたる。

 伝説によれば、ロシアの建国は紀元862年とされるが、そのちょっとあとの882年には、北方にいた集団が南方のキエフを占領し、スラブ人の統一国家を実現した。

 10世紀に入ると、このキエフ公国は度々コンスタンチノープルを攻撃するほどの勢いを見せた。988年、キエフ大公はビザンツ帝国の皇女を妃に迎え、キリスト教(ギリシャ正教)を国教とするにいたった。

 この民族は、のちにロシア語となっていく東スラブ語を使用したが、文化・宗教的にはビザンツ帝国の影響を強く受けていた。だから宗教的には東方教会に属し、ラテン文字ではなく、ギリシャ文字をもとにした固有のキリル文字を作りだしたのだ。

 こうして発足した古代ロシア国家はしかし、順調な発展を遂げることができなかった。13世紀に入ると、東から侵入してきたモンゴル・タタール民族に支配されてしまったからだ。モンゴル・タタール民族によるスラブ人支配の時期は「タタールのくびき」時代と呼ばれた。歴史上、この時期は1236年から1480年まで200年以上続いた、とされる。

*「くびき」とは車やそりを引かせるために馬を制御する道具

 つまりロシア・ウォッカが誕生したとされる15世紀半ばには、ロシアの地はまだ他民族支配の下にあったことになる。しかし実際は、そのころすでにスラブ諸勢力が力をつけ、タタールの支配から脱出しつつあった。モスクワ公国はその中の雄であった。

 タタール人はロシアの地を直接支配するのではなく、武力的に服従させたあとは支配階級や宗教勢力を残し、彼らを通じて間接支配して課税する方法をとった。そこで古代スラブ国家の各地方や都市の勢力は存続し、教会も力を保ったのである。

 ロシアでは国家発生のときから、その支配者をkniaz'(公)と呼び、「王」という名称は使用されなかった。タタール支配のもとでも各地の公の多くが命脈を保ち、分裂・対立状態が続いていた。タタールによる巧みな分割統治だった。

 そんな時期が始まったころ、ヴォルガ、ドン、ドニェプルなどの大河の水系とつながっているモスクワ川のほとり、ロシアの大地の中央部にひとつの公国が出現した。川の名称にちなんでモスクワと名乗ったこの公国は、水運の便と地の利を生かして急速に発達した。

 公国が発展・拡大するためには、経済力と軍事力を獲得するほかに、支配者であるの一族内部の安定や他の大貴族と良好な関係、教会との協力、そして何よりも、すぐれた指導者が必要だったが、モスクワ公国はこれらの条件を満たし、15世紀にはタタールの圧力に抗して支配領域を増大させていった。

 また、世紀半ばにモスクワはみずからの手で府主教(大司教)を選出し、ビザンツの教会組織からある程度独立した地位を獲得した。

 この世紀の半ば、モスクワ公国は激しい内乱に見舞われるが、ワシーリィ2世(在位142562)が勝利をおさめ、次のイワン3世(在位14621505)の時代になると、他のロシア諸国を併合し、タタールのくびきを終了させて、まぎれもない地域強国となった。

 のちに「雷帝」と呼ばれて私達にもなじみのあるイワン4世は、異民族支配地域にまで領土を広げ、ツァー(「ツェーザリ(カエサル=皇帝)」から作られたことば)を名乗るが、それはもう少し先、16世紀半ばのことになる。

 コンスタンチノープルが陥落した15世紀半ば、ロシア(モスクワ)はこのような上り坂の状態にあった。コンスタンチノープル陥落後も東方教会の存続自体はトルコによって認められたが、東方教会組織は力を失い、権威は地に落ちた。そのときにキリスト教会の正統な後継者として名乗りを上げたのはモスクワだった。

 「第1のローマ教会は、真のキリスト教を裏切ったがゆえに滅びた。第2のローマであるコンスタンチノープルも同じ理由で神の罰を受けた。今やモスクワこそが第3のローマであり、この真のキリスト教会は、この世の終わりまで続く。」

 このようにして東西教会関係は新しい時代に入るが、それはもはや、ウォッカとは関係のない別の物語である。

   オスマン帝国の拡大と瀕死のコンスタンチノープル

 風前の灯であったコンスタンチノープルの運命に話を戻そう。

 すでに述べたように、13世紀末にアナトリア(小アジア)に建国したトルコ人を中核とするイスラム教徒のオスマン帝国は急速に力をつけ、1326年にはアナトリア北西部のブルサに首都を定めた。

 さらにその後、マルマラ海を越えてヨーロッパ部分に進出し、領土を拡大したオスマン帝国は1369年にはコンスタンチノープルのすぐ北側に位置するアドリアノープル(現エディルネ)を首都にするにいたった。

 力の衰えていたビザンツ(東ローマ)帝国は領土のほとんどを失い、首都コンスタンチノープルは後背地をわずかに残して、マルマラ海とボスポラス海峡のほとりに孤立した。

 日の出の勢いだったオスマン帝国はひとたびはコンスタンチノープルを包囲するが、1402年に東方の新興勢力チムールに大敗し、帝国は一時瓦解してしまう。ただし、ビザンツおよびヨーロッパ勢力が失地を回復できないでいるうちに再興を果たし、もとの領地をふたたび支配することとなった。ビザンツ帝国は絶好の起死回生の機会を生かすことができなかったのだ。

 ビザンツ帝国は、ブルガリア、マケドニアなどの東ヨーロッパ諸国と共に、オスマン帝国に年貢金を払わされることになった。しかし、オスマン帝国はしばらくの間それ以上の行動には出なかった。

 コンスタンチノープルは東西を結ぶ自由港のような役割を演じ続け、ここでヴェネツィアやジェノヴァなどのイタリア商人やアラブ、アルメニア、ユダヤ人の商人たちが活発な商業活動を展開した。もともと遊牧民のトルコ民族自身は、あまり商業活動をしないのである。

 こうしてコンスタンチノープルはスルタンが最終決着の決心を固めるまで、風前の灯ではありながら、伝統文化と商業繁栄の光を放ち続けていた。

 1451年、コンスタンチノープルの現状に手をつけようとしなかったスルタン・ムラードが死ぬと、古代ギリシャのアレクサンドル大王にあこがれ、帝国拡大の野心に燃える19歳のマホメッド2世がスルタンに即位した。

 その3年前に即位していたビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンチヌス11世は、この情勢の変化に直面して緊急援助要請の使節団をローマに送った。もはやあとのない皇帝は使節団に、カトリック主導による東西教会の合同に同意する旨の書簡をもたせた。

 52年になると、コンスタンチノープルを取り巻く風雲は急を告げてきた。コンスタンチノープル中心部からわずか30キロしか離れていないビザンツ帝国領内のボスポラス海峡ヨーロッパ側海岸のルメル・ヒサリに、トルコが要塞建設を始めたのである。この要塞跡の堅固な石造物は、沖を行く船を威嚇するかのような姿を今に残している。しかしビザンツ帝国側は何もなすすべをもたなかった。西欧からはわずかな数の援軍しか到着しなかった。

 玉砕の覚悟を固めたコンスタンチヌス11世はできる限りの防御策を講じた。三重の堅牢な城壁をめぐらせ、細長い金角湾の入り口には鎖をはって、トルコ軍船の侵入を防いだ。

 スルタンも着々と攻略作戦を進めた。あらゆる民族やタイプの兵士を合わせても7000名しかいないコンスタンチノープルに対し、16万人にも及ぶ兵士を動員したのである。城壁を破壊するために、それまでに例のない巨大な大砲も準備した。

 1453年4月12日、ついに攻撃が開始された。海上では、経験豊富なヴェネツィアとジェノヴァの海軍が少数ながら健闘して、トルコ軍船の金角湾侵入を阻止したが、物量と兵員数で圧倒的なトルコ陸上軍は1週間連続して城壁への砲撃を続け、その後総攻撃をかけた。しかし防衛側は、城壁の多くを崩されながらこの猛攻撃をしのいだ。

 総攻撃を跳ね返され、正面の海側からの金角湾突入も阻まれたスルタンは、ここで奇想天外の作戦に出た。ボスポラス海峡側から70隻の船を陸に上げ、高地を越えて金角湾に滑り込ませたのである。誰も考えたことのない海軍の山越えであった。両側を海に守られていたコンスタンチノープル防衛線のひとつが効力を失ってしまった。

 包囲網はさらに狭まり、砲撃はやまなかった。結局ヨーロッパから本格的な援軍は到着しなかった。コンスタンチヌス11世は度重なるスルタンからの、退去と首都明け渡しの勧告を受け入れようとせず、トルコによる波状攻撃は執拗に続けられた。包囲攻撃に対する抵抗は50日になろうとしていた。

 5月29日、16万のトルコ兵が最後の総攻撃に移り、その攻撃でコンスタンチノープルはついに陥落した。最後の皇帝はその戦闘の中で戦死した。1100年以上続いた東ローマ帝国はここに消滅したのである。街は3日間、スルタンの許可を得たトルコ兵の略奪にさらされた。

 この戦いで、新興モスクワ公国はどんな役を演じたのか。格別の役は演じていない。まだ領域外に兵を送るだけの力をもっていなかったのである。ただ前述のように、コンスタンチノープルの東方教会が無力化したあと、モスクワは東方キリスト教会首長の正統な後継者として名乗りをあげたのであった。(その④へつづく)

世界史の中のウォッカ その④(最終章) -小町文雄書下ろし

 4. イシードロス枢機卿とウォッカ

   東西教会合同運動とイシードロスの「転向」

 総主教、府主教、主教というのは東方教会の最高位と、その下2段階の役職の名称である。西方教会(カトリック)でこれに相当するのは教皇、大司教、司教である。もちろん完全に一致するわけではないし、細かい点ではいろいろな違いがあるが。

 カトリックにはさらに枢機卿という、大司教の上に位置づけられる職位があり、彼らが毎回教皇を互選する(コンクラーベ)。

 東西キリスト教は、分裂以来合同したことがないので、総主教兼枢機卿という職位は本来ありえない。しかし、東方教会総主教の座があったコンスタンチノープルの陥落が目前に迫ったときに、最後のビザンツ皇帝コンスタンチヌス11世が下した決断によって、ほんの一時期ではあるが形式的に成立した東西キリスト教会合同のもとで、すでにカトリックの枢機卿の称号を受けていた人物が東方教会の最高位をも兼務する事態が生じた。その人物がイシードロスなのであり、ほかならぬその人物こそがモスクワにアルコール蒸留法を伝授したと推測されているのである。

 イシードロスは東方教会の主流派からは裏切り者とされ、西方教会からは、東方教会併合をもくろんだローマ教皇の格好の駒にすぎない存在とみなされたので、従来あまり敬意を払われることがなかった。しかし、近年その合理的精神と、両教会合同実現のための献身的活躍に関する考証・研究が進み、評価が高まってきた。

 私たちにとってイシードロスは、確認されていないとはいっても、ウォッカの生みの親である可能性の高い最大級の重要人物である。

 イシードロスは1390年(?)にペロポネサス半島南端部に生まれたギリシャ人で、1463年にローマで没し、サンピエトロ大聖堂に手厚く葬られている。言行録や、著作物や書簡もかなり多数残されている。

 イシードロスはコンスタンチノープルで学び、当時としては破格の広い学識を身につけたあと、修道院に入って東方教会屈指の学者のひとりとされた。1434年、バーゼルで開かれた東西教会会議で早くも、トルコの脅威に対して東西教会が協力することの重要性を説く演説をしている。

 1436年には「キエフおよび全ロシア」府主教に任命された。「タタールのくびき」以来、ロシア発祥の地である古都キエフは往年の勢力と権威を失っていたし、「全ロシア」といっても、多くの諸公が対立状態にあった。だから実体を伴ってはいなかったのだが、総本山のコンスタンチノープルが任命する、ロシア諸公国教会組織の中で最も権威の高い職位であった。

 祖国がイスラム教徒によって滅ぼされる危機にあったので、イシードロスは早くから、東西キリスト教会が一致してこの危機に対処すべきだという考えをもっていた。彼は精力的に各地をめぐって自説を説いた。1437年には、東方教会文化圏内にありながら、地理的にトルコにおびやかされることもなく、着々と力をつけていた新興国モスクワにも足を延ばす。

 ここでモスクワ大公ワシーリィ2世に拝謁し、東西教会の協力の必要性を説いたが、モスクワはまだその問題を重要課題と考える必要がない状態にあったので、この訪問がどの程度意味をもったのかはわからない。モスクワ公国はヨーロッパ世界ではまだ辺境の端役にすぎなかったが、潜在力を考えれば、無視できない存在ではあったのだろう。

 イシードロスはその後もロシア各公国や東欧地域の各国を回り、熱心な説得活動を続けた。そして当時西ヨーロッパ世界の南部のほぼ東端に位置し、海洋商業に基づく共和国であったために、他地域とは違った自由な雰囲気が横溢していた国家ヴェネツィアに到着した。

 イシードロスはヴェネツィアを初めとするイタリア各地を訪問、居住し、自由なルネッサンスの空気に触れた。この経験はイシードロスの価値観をゆるがせるほどの影響を与えたようである。

 ビザンツ文明を支える支柱だった東方教会(ギリシャ正教)では権威主義的考え方が支配し、すべてにわたって硬直していた。ビザンツ文明圏は旧来の秩序と世界観をかたくなに守ろうとする人々が主流を占めていた。その教会に絶対的に服従する修道僧たちの排他的、禁欲的価値観が社会を支配していた。それでいながら教会はローマ教皇とは違い、皇帝という世俗的権力の下に位置する教皇皇帝主義だった。

 イシードロスは、人間性の発露を認めるルネッサンス期の西欧文明と、それに柔軟に(東方教会に比べれば)対応する西方教会のあり方に驚愕し、急速にそれへの共感を強めていったようである。

 熱烈な愛国者ではあったが、イシードロスはローマ・カトリックが主導する形の教会統一も止むを得ないと考えた。のみならず、それこそがイスラムの脅威からキリスト教会を救う唯一の道だ、とさえ考えるようになっていったのである。

 143839年、北イタリアのフェッラーラ(そのあとフィレンツェに移動)で東西教会の会議がおこなわれ、教会組織の合同に関する問題が話し合われた。トルコの脅威にさらされていた東方教会は、軍事的・政治的援助を期待して、合同に熱意をもっていたが、あくまでも東西対等を要求していた。

 一方カトリック教会は、これを東方教会併合の絶好の機会と見た。彼らはコンスタンチノープル防衛援助の代わりにローマ教皇の絶対的権威を認めた上で教会組織を合同させることを条件として求め、譲ることはなかった。

 イシードロスは東方教会の有力な代表のひとりであったが、西方教会の求める条件でも合同を実現しなければならないとする立場をとった。彼は精力的な運動を展開したが、東方教会代表団の大半は、これに同調しなかった。会議は決裂した。

 ローマ教皇は、東方教会にありながら、自分の意見と政策の先兵の役を果たしているイシードロスを評価し、枢機卿という最高位を授けた。さらに教皇特使の資格も与えられたイシードロスは、ヨーロッパ東部各国を回ってカトリック主導による東西教会合同に同調するよう、説いて回った。

 当然彼は、東方教会の多くの関係者から裏切り者として憎まれることとなった。それでも彼はめげることなく、「僻地」ではあったがビザンツ文化圏の中で力を増しつつあったモスクワを再度訪問する決心をしたのだった。

   イシードロスのモスクワ訪問、そのときに

モンゴル・タタールの軍勢がロシアの地を攻略し始めた13世紀に発足したモスクワ公国は、隣国との争い、タタールへの巧みな追従外交などへて徐々に力をつけ、1380年にはついにタタール軍を打ち破るまでになる。その後ふたたびタタールに屈したので、ロシア史の「くびき」の時代が終わったわけではないが、モスクワ公国は国力も権威も上り、領土は拡大した。

15世紀にはすぐれた指導者のワシーリィ2世(在位142562年)が現れて、公国はさらに強力になったが、血なまぐさい内部紛争が続いた。ワシーリィ2世の統治は3回も妨げられ、そのたびに追放されたので、その在位期間は連続していない。

 最後の追放の際(1446年)には残酷にも目つぶしの刑に処されてしまったので、歴史上「盲目公」と呼ばれるようになる。しかし、それにもめげずに復位したこの大公のもとで、モスクワはある程度安定し、さらに発展したのだった。

 イシードロスが最初にモスクワを訪問し、ワシーリィ2世に対面したのは、1437年、大公が盲目にされる以前のことである。フェッラーラ=フィレンツェ会議よりも前であったが、イシードロスは東西教会の合同の必要性を強く訴え、支持を求めた。

 ワシーリィ2世の浮沈が物語るように、当時のモスクワ公国では激しい政争が繰り広げられていた。およそ四半世紀にわたって、支配者一族の間で血なまぐさい紛争が続いたのだ。これに近隣諸国との戦争やタタールとの闘争が重なった。このような不安定な状態に終止符を打ち、モスクワ公国の安定と発展の基礎を築いて次世代につなげたのが、このワシーリィ2世だったのである。

 イシードロスの2度目のモスクワ訪問は1441年のことである。このときにはすでにカトリックの枢機卿の肩書きももって合同を説いたので、間もなく捕らえられ、幽閉されてしまった。裏切り者とみなされて処刑される危険さえあった。

 捕われたイシードロスは前の訪問の際に謁見を許され、好意的に処遇してくれたワシーリィ2世に期待をかけた。

 ワシーリィ2世はきびしい乱世を乗り切って安定をもたらしたすぐれた政治家だったが、彼の周囲には同族の有力者、他の大貴族、高位の僧侶、タタールと結びついた勢力など、いつ敵に回ってもおかしくない勢力がひしめいていた。

 その中を生き抜いただけではなく、味方をふやし、敵対勢力を弱体化させ、支配力を強化したということは、すぐれたリアリストの素質をもっていたことを意味する。

 イシードロスはその点に望みを託したのだろうか。まだトルコからの脅威を受けることはなく、西欧列強の勢力争いにもほとんど関係のないモスクワ大公は、イシードロスの説く教会合同の大義には、そもそもあまり関心をもたなかったのではないか思われる。

 僧侶階級をふくむ多数の勢力を御していかなければならなかったリアリストの権力者が東西教会合同に関心をもったとすれば、純粋な信仰心や外交上の配慮などからではなく、あくまでも内政的な損得の観点からだっただろう。

 一方で、アクアヴィットのような新しいアルコール飲料の生産は、モスクワ大公に有形無形の大きな利益をもたらす可能性を秘めていた。イシードロスはそのことを大公に説明して、自分を釈放してくれるなら、その製法を伝授する、ともちかけたのではあるまいか。

 ロシアに当時すでに存在していたビールのような穀物飲料から、アクアヴィットと同じ「命の水」を作り出す秘法をお教えしましょう、と。

 イシードロスはなぜ蒸留法を知っていたのだろうか。蒸留法は中世初期以来、ヨーロッパで熱心に取り組まれた錬金術の数々の探求の成果だった。イシードロスはその時代切っての学者だったから、その豊かな学識には古代ギリシャ語やラテン語などの語学、哲学、神学、歴史学、修辞学などの分野がふくまれていた。であるならば、その中に錬金術とも関連の深い当時の化学が入っていたとしてもふしぎはない。

 イシードロスの説く東西教会の合同に関して、モスクワの高級僧侶たちは激しく反発したはずである。しかし、このときの大公には、イシードロスの説く教会合同の方針を採用するという政治的な賭けをする必要はなかった。脱走を黙認するだけで巨利が得られるのなら、これは大きなチャンスではあるまいか。

 大公は旺盛な好奇心をもっていた。それに大公は日ごろから何かと口うるさく政治に関与してくる僧侶たちをよく思っていなかったから、たいした危険をおかすことなく彼らの進言を無視して、自分の考えを通すことに快感を覚えたのかもしれない。

 イシードロスはクレムリン内部にある修道院に軟禁の状態となり、そこでアルコール蒸留を実現させるよう命じられた。成功の暁には従者と馬を与えられ、途中まで安全に護送される約束であった。

 クレムリンというのは、ロシアの古い町ならどこにでもあった城塞のことである。モスクワ・クレムリンは大きく蛇行を繰り返すモスクワ川が2本に分かれる場所の小高い丘の上にある。その1本は現在では地下の暗渠となっているので地表で目にすることはない。

15世紀前半のモスクワ・クレムリンは現在より広く、ちょっと想像しにくい姿をしていただろうと思われる。現在見られるレンガ造りの城壁と塔は、今ここで扱っているよりもあとの、15世紀末に整備されたものだし、古いロシアのたたずまいを今に残す3つの聖堂も、白く高い鐘楼も、古いいくつかの宮殿もすべて15世紀の終わりごろ以降に建てられたのだから。

16世紀半ば(ワシーリィ2世治世の100年後)に作られた絵図を見ると、敷地の中にはびっしりと多数の建物がならんでいるが、当時は建物がもう少しまばらだったのではあるまいか。その周囲は白い石造、部分的には木造の城壁で囲まれていたらしい。

 つまり、当時のモスクワ・クレムリンは城壁に囲まれたヨーロッパの中世都市のようなものだったのだ。絵図によると、敷地内部のところどころに、大きな石造りの宮殿や寺院のようなものが建っている。寺院、修道院はひとつではなく、いくつもあったのだ。

 イシードロスはそのうちのひとつで作業に従事したはずだ。壁が厚く、窓が小さく、柱が太い、まるで洞窟のような修道院の内部。暗いろうそくの火の中に、漆喰の壁に描かれた(いにしえ)の聖人たちの像が浮かび上がる。

 それとも作業は、木造の小屋の中でおこなわれたのだろうか。当時の木造家屋は厳冬の隙間風を防ぐために、間に苔を詰めて積み重ねられた丸太造りだった。窓は小さく、ガラスの代わりに雲母がはめ込まれており、床は土間である。壁に埋め込まれたロシア風の閉鎖式暖房装置ペチカとは別に、作業のための火が、開かれた炉の中で燃えている。

 イシードロスは何人かの助手を使って火の様子や原料やその容器のぐあいを見させたことだろう。まだガラスが存在しなかった時代に、アルコール蒸気を集めて外へ導き出す管は何で作られていたのだろうか。

 イシードロスはときどき容器の内側にたまるしずくをすくいとってなめてみる。あたりには鼻を刺すようなアルコールのにおいが立ち込めている。

 蒸留は何回か繰り返しておこなう必要がある。1回ではそれほどアルコール濃度が高まらないからだ。最初の蒸留で得られた薄いアルコールを陶器のかめに溜める。ある量が溜まったら、これに2回目の蒸留を施す。これを何回か繰り返し、白樺の炭で不純物を濾し取ると、透明の「命の水」が得られるのだ。こんな作業が何日も続いた。

 大公の監視役がときおり様子を見に来る。周囲の、敵意あふれる修道僧たちも、好奇心に負けてのぞきに来たに違いない。まだウォッカはなかったわけだから、後世のように、試作品をちょろまかすふとどきな飲兵衛などはいなかったはずである。

 信念の人イシードロスがそんな中で黙々と作業を続ける様子が目に浮かぶようだ。当初は失敗の連続だったかもしれない。それでも、自分の双肩に東方教会の命運がかかっていると信じたイシードロスは必死だった。

 めでたく作業が終了して、完成品を大公に献上したときはどんな光景だったのだろう。大公が家臣を謁見するときに使う玉座の間は、西欧諸国の明るい宮殿とはまったく違って、アーチ造りの小さな丸天井がいくつもあって、窓が小さく、薄暗い。厚い壁も、アーチを支える太い柱も、天井も鮮やかな色のフレスコ画に覆われており、薄暗いランプの光の中であやしくも荘厳な雰囲気をかもし出している。

 重々しいローブを羽織り、長いひげを蓄えた重臣がずらりと左右に並ぶ。ギリシャ正教ではひげを切ることは禁じられていたのだ。その中を、できたばかりのウォッカを満たした銀器をもったイシードロスがうやうやしく進み出る。

 玉座にすわった大公は、液体をまず毒見役に飲ませる。今まで味わったこともない強いスピリッツを、毒見役はどんな顔をして飲み干したのだろう。喉をおそった強いアルコールの刺激に顔をしかめただろうか。

 好奇心を抑えきれずに、みずからも銀の盃をぐいと飲み干した大公はどんな反応を示したのだろう。弱音を吐くわけにはいかなかっただろうから、500年後のロシア人飲兵衛たちのように、こぶしを口にあて、咳払いをしてとりつくろったのかもしれない。

 その後しばらくは、めでたく成功した方法を修道僧たちに伝授する、陽気で忙しい日々が続いた。

 さらにしばらくたったある日の朝まだき、凍てつく空気の中を、馬にまたがったイシードロスは従者と護衛につきそわれ、晴れ晴れとした表情でクレムリンの城壁をあとにした。目指す西の世界で、彼にはまだやるべき仕事があった。

 と、「講釈師、見てきたような嘘をつき」でありました。

   コンスタンチノープル陥落とその後

 モスクワ脱出後、イシードロスはリトアニア、ポーランド、ハンガリーなどを経てローマに帰着するが、その後もコンスタンチノープルとの間を往復して、熱烈に合同運動を推進しつつ、数々のカトリック教会の要職を歴任した。

 1453年には教皇特使として200名の兵士を率いて、包囲下で絶望的状況にあったコンスタンチノープルに到着し、首都防衛を担う幹部会議の一員となった。ビザンツ帝国皇帝、その重臣や軍人たち、東方教会の高僧たち、市内に自分たちの居住区をもっていたヴェネツィア、ジェノヴァ両国の代表などがその主要なメンバーだった。

 そこへ、いわば死地に飛び込む形で部外者が参加したのである。教皇特使という、肩書きだけはりっぱながらも、200名の兵士しかもたない、軍人ではない僧侶として。

 結局まともな援軍を送ることができなかったローマ教皇が、東方教会に示しえたわずかな誠意を具現したのが、イシードロスとその軍勢だったのである。

 東西教会合同を記念して捧げられるミサは、コンスタンチヌス11世の要望により、イシードロス到着前にすでに聖ソフィア大聖堂でおこなわれていたが、陥落直前にもう一度、東西両キリスト教会が一体であることを確認するミサが執りおこなわれた。

 しかし、コンスタンチノープル陥落後、トルコに認められて存続した東方教会組織本部も、東方教会首長の後継者をもって任じたモスクワも、このときの合同儀式を正式なものと認めなかったので、事実上東西教会の合同は成立しなかった。

 コンスタンチノープルにおいて、はからずもビザンツ帝国皇帝に次ぐ重要人物となってしまったイシードロスは、陥落時の混乱の中で負傷する。しかし彼は枢機卿の衣服を脱ぎ捨てて姿をくらまし、きびしい捜索の目を逃れて、小アジアに移送される捕囚の群に紛れ込んだ。

 何度も発覚する危険にさらされながら、彼はさらにそこからも脱出し、海路でトルコ勢力圏から逃れた。そして翌年にはヴェネツィアまでたどり着き、その後ローマに帰着した。まさに奇跡的生還であった。

 この驚くべき人物はその後も屈することなく、キプロスのニコシア大主教になったり、諸国に十字軍結成を呼びかけるなど、活発な活動を続けたが、63年に死去して、ローマのサンピエトロ大聖堂に葬られた。

 イシードロスの生涯の功績はどう評価されるべきなのか。これは、当然ながら評価する側の宗教的立場によって大きく異なるだろう。

 ところで、モスクワにアルコール蒸留法を伝えたのがもし本当にイシードロスであったのなら、そちらの方の功績評価はどんなものがふさわしいのだろうか。これはまさか、宗教的立場によって異なるものとはなるまい。ウォッカは東西いずれの教会人にも、信者にも、さらにのちには異教徒にすら(イスラム教徒は禁酒だから除かれるが)、ひとしく至福をもたらしたからである。

 たしかに東西キリスト教会合同の試みという、世界史上特筆されてしかるべき活躍と比べたら、ウォッカ誕生への貢献などは、あったとしても、従来なら取り上げるにも値しないものと扱われただろう。しかし、社会史の立場に立てば、これもロシア文化というひとつの文化の重要な要素を生み出すことにつながった偉大な業績ではあるまいか。

 このようないきさつで、ウォッカの誕生は世界史を激震させたできごとに触発され、それと深い因縁をもって実現したのである。初めに述べたように、ウォッカはまさに世界史の激動の中で生まれたのだ。

 さて。現在に生きる飲兵衛で不信心者の、あなた。

 あなたにとっては、イシードロスのどちらの功績がより大きな意味をもつのでしょうか。ウォッカを飲みながら、よーく考えてみましょう。  (終)

<著者紹介へつづく>

世界史の中のウォッカ その⑤ -著者紹介

「世界史の中のウォッカ」著者紹介

 小町文雄(こまちふみお)、本名宇多文雄。

 上智大学外国語学部ロシア語学科卒業。在ソ連邦日本大使館研修・勤務を経て、上智大学専任講師(その後同教授、現在名誉教授)。ロシア・東欧学会理事、代表理事、日本ロシア文学会理事、副会長、ロシア語通訳協会会長などをつとめる。NHKテレビ、ラジオロシア語講座講師。サンクト・ペテルブルグ文化大学名誉博士。

 主な著書に『ソ連 政治権力の構造』中央公論社、『グラースノスチ ソ連邦を倒したメディアの力』新潮社、『ペテルブルグとレニングラード 光と陰の物語』東洋書店、『ロシア語通訳教本』(原ダリアとの共著)東洋書店、『ロシア語文法便覧』東洋書店、など。

 筆名小町文雄で『サンクト・ペテルブルグ よみがえった幻想都市』中公新書、『ロシアおいしい味めぐり』勉誠出版、『おれんちでメシ食わないか』光文社、『趣味は佃煮』光文社知恵の森文庫、『熟年旅三昧』清水弘文堂、『ゆとりの旅心』勉誠出版、『グルメの教養』アーバンプロ出版センターなど。

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